あるとき、「農ある暮らし」というwebサイトを見ていて、そこで農業を営む人々の声に俺は共感を覚えた。

以下、引用。


特別なことはなにもありません。こだわっていることも特にありません。
ただ、家族が食べるものだから、自分の口に入れるものだから美味しいものを作りたいし、いろんなものが作りたいし、安心して食べれるものが作りたいのです。
それを少し多めに作って販売しています。
我が家にとって「生産」は、おすそ分けする気持ちと似ていると思います。
毎日いろんな瞬間との出会いがあり、自分も自然の一部になったような感覚で、ああ、わたしも生かされているんだと実感する尊い時間を過ごしています。

三宅 智子(島根県津和野町)

よく人から「もっとニワトリを増やさないんですか?」と訊かれる。
だから僕はいつも同じように答えてる。
相馬の米農家さんが譲ってくれる米の量、相馬の大豆農家さんが譲ってくれる大豆の量、相馬の魚屋さんが譲ってくれる魚のアラの量、そして相馬で困ってるから持っていっていいと言われる薪用の木の量、最後に僕らが毎日一羽一羽見てやれるニワトリの数。
これらが1つでも追いつかなくなるなら、それは地域で循環できる規定の量を越えてしまったということになる。
循環の枠から外れたら僕にとってはそれは生きかたとして間違いであり、次の世代に繋げられる農でもなくなると思っている。
普段何気なく食べられる「卵」というものが、海からも山からも恩恵を受けた物であり、卵をいただくということのためには、海も山も絶対に必要であるということを、僕は皆にも息子たちにも伝えたいし、自分自身も忘れないようにしていきたい。

大野村農村(福島県相馬市)


 

農家のひとは『仕事』と『生業』を分けて考えていると聞いたことがある。

今すぐはお金にならないけど、未来のために田んぼでない新しい土地を耕したりすることを仕事といい、田植えや稲刈りといった収穫の作業を暮らしを立てるためにする生業という。

農業は、そもそも不可抗力(台風等)と常に隣り合わせな生業で、自然との共存であり、戦いでもある。

そういう意味では、安易に共感というのはおこがましいけれど、写真家も同じだなと思う。俺はカメラマンを20年近くやってきたが、仕事と生業を分けて考えた方が道理がいい。

たとえば、今月、収入が少ないのは過去の仕事のどこかで疎かになってしまったからだと考えたほうがいい。カメラマンの仕事は撮影だけではないのだ。割のいいギャラで案件をこなすと、つい地味な仕事をなまけてしまう。

ひとは生かされている。

俺は、たまたま巡ってきた仕事をこなして収入を得ている。技術やキャリアなんてものは飾りでしかない。おまけみたいなもんだ。

結局、ひとがひとを呼んでいる。

自分だけで成り立つ仕事なんてないのだ。

写真でたくさん稼いでいた時、自分の技術が優れているのだと勘違いをしていた。そんな馬鹿な自分に気づいたのも、幸運だったといえる。

才能なんてない。仕事がうまくいった時、そこには運をつけてくれた誰かがいたのだ。

感謝しかない。

 

循環。

インターネットという大海原にいると、人にとって大事なことをすっかり忘れてしまう。海の底は深く、みえない。ずっと同じような景色のなかにいると感覚が麻痺してしまうのだ。

ある意味、限界がない。ひとはそれを気まぐれに『可能性』とか『未来』とかいうが。

俺は時々、土の香りが恋しくなる。足元がおぼつかないストレスから解放されたいと思う。

農業でいう循環とは、命あるものは、お金に換えるのではなく、命あるものの身体に変えることなのかもしれない。

 

photographer 高野勝洋

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