草の実

童話 作   高野勝洋

 

草のいおりは懐かしい話をしてくれる旅人を待っていました。

窓のすぐそばに置いた、汚れの一番少ないロウソクに灯をつけて、旅人を待っていました。
ロウソクの灯りが、通りすがりの旅人の目にとまるようにと。

 

時々、近づく旅人の姿を想像しました。
けれども、わきおこるのは古い恐れでした。
扉をこわされ、屋根をおとされ、ひどく罵られるのではないかという恐れでした。

それでも、草のいおりは懐かしい話をしてくれる旅人を待っていました。

山襞の間の小さな村里が黒い夕の闇に包まれ始めると、人家の白い壁も夕闇の底に沈んでしまいます。そうすると、息もとぎれとぎれなロウソクの明かりがほのかに浮かんでくるのです。
まるで螢が放つ蒼い光のようにたよりなく、その明かりはゆれていました。
その日もちょうどそんな夕暮れでした。

ひとりの旅人があらわれました。

草のいおりは物語を聞かせておくれと、旅人に呼びかけました。
ロウソクの火がゆらゆらと揺れて、旅人の影が大きくなったり小さくなったりしています。
優しい話には笑顔を向けよう、寂しい話には涙を捧げようといおりは思いました。

「 いいえ 」と旅人はかぶりをふりました。

私には話すことなんてありません。汚れを流すこともできず、中にも入れません。
それに、そこはすぐに壊れてしまうだろうから、と旅人は言いました。

草のいおりは、とても怒りました。
悲しさのあまり冷えて固くなった地面を叩きました。
旅人なんて石になってしまえばいいんだ!
いおりは泣きながら言いました。
すると、旅人は草の束の間の宿から離れていきました。

いっそうのこと、このロウソクの焔に焼かれて灰になって、風に吹かれてしまいたい。
いおりは嘆きました。
ロウソクの赤い焔は小さくなっていく旅人の背中をずっと照らしていました。

だけど、いおりの怒りはどこにも届きませんでした。

 

季節はゆっくりと移ろいました。
草のいおりはまだ待っています。
窓のそばに置いたロウソクは火がついたままでした。

一年のうちで最も寒い頃、草のいおりは白い雪に覆われてしまいます。
ロウソクの焔は、すぐに消えてしまうのです。
もう誰も僕のことを見つけることはできないだろう。
草のいおりは悲しい気持ちになりました。
それでも、いおりは長い長い夜の中をじっと待っていました。

夜が止んで、朝もやがうっすらとたなびくと、東の空につんと出た山の頭がほのかに赤くなりました。
まだ空がいっぱいに染まらないうちから、一羽のツグミが光の届くほうへと飛んでいきました。
山間の村の畦道に並んだ花の芽がゆっくりと動き始めました。

不意に、小さな声が聞こえてきました。
絹のように柔らかなその声は、草のいおりをびっくりさせました。
いおりの目に映るのは、とても若いあやめでした。
葉は青く、みずみずしく、幹は細いけれどぴんと空に向かって伸びています。
あやめはまるで恋をした少女のように少しはにかんで見せると、そっと草のいおりのなかに入りました。そして、あやめは静かに話をはじめました。

あやめの物語は、音楽のようでした。
甘い沈黙の中をゆっくりと降りてきた音が音を誘い、憂愁のなめらかな響きを立てると、うっとりするような妙なる調べがいおりを包み込みました。
次の瞬間、一面がぱっと明るくなって、いおりの上にたくさんの音が集まりました。
音は宙を舞い、音は音と重なり合い、音は音のあいだを飛んだり跳ねたりしています。
まるで音は音と愉快なおしゃべりをしているみたいです。
あやめの奏でる豊かな音色がいおりの渇いた心をすっかり潤しました。
あやめの物語はとっても静かでした。
いおりを包む音楽はとっても静かでした。まるで深い海の底を泳いでいるかのように、果てしない静寂が広がっているのです。
静かに震える歓喜の心は沈黙に付き添い、沈黙に導かれて、いおりは『 あたらしいはじまり 』に魅せられました。

ちょうど夢から夢へ渡るように。

あやめは窓のそばのロウソクをゆっくりと吹き消して、いおりの草の根に触れました。
いおりはまるで長い間、固く紡いであった糸をほぐすかのように草の根を地面から離していきました。

いおりとあやめは桜の咲く小道へとすべるようにおりていきました。

次の年の三月、あやめは可愛らしい男の子を産みました。

おわり

1999年4月14日

高野勝洋の草の実

CONTAX RTSⅢ  CarlZeissPlanar 50mmF1.4   Kodak PORTRA160NC

photographer 高野勝洋