長崎

カメラマン高野勝洋の作品「長崎」

 

写真とは「断片的に時間を記録するメディア」でしかない。

動画というメディアでも、そこに映るのは実際に生じたできごとの「断片」でしかない。

写真とは異なり、動画には音声が伴うが、どちらもカメラのファインダーというフレームによって切り取られた映像という点では同じであり、そういう意味では虚構であり、フィクションなのだ。

しかし、「それを取り囲むものがいろいろに想起されること」については、写真と動画の間に、かなりの違いがあるように感じられる。
一枚の写真を見るということは、カメラが捉えたある一瞬の記録を目にするという体験である。

そこに焼き付けられたものは、ひとつのイメージであると同時に、長さのない「点」としての時間でもある。

長崎の街並み

写真を見るとき、ひとはその瞬間に確かに存在した光景や人物を目にして、直接的に写ってはいないそれらの過去と未来に、さまざまな想いを馳せることになる。

報道写真のような他者の記録でも生じる体験だが、 自分自身の記録である場合、それは一段と鮮烈な「想起」をもたらす。

 

 

 

長崎の街並み

 

記録と記憶。

それらがどのように取り出されるかを考えると、違いはより明らかになる。

記録は、元どおりの形で「再生」または「復元」される。

しかし、記憶は、ひとそれぞれの形で「想起」されるのだ。

 

長崎の銀杏並木

Nikon FM2  50mmF1.8 Kodak  PORTRA160NC
PENTAX67  TAKUMAR90mmF2.8  Kodak PORTRA160N

photographer 高野勝洋

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