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浜辺のように白い校庭の先には朽ちた木造の校舎が佇んでいた。

空気が澄んでいて真上に昇った太陽が眩しい。おかげでくたびれた校舎がまるで焼きたてのカステラのように明るく映っている。背後には低い山々の尾根がゆるやかにたなびいている。
この小学校が廃校になったのはほんの5年前だと聞いた。来年取り壊されてここは更地になるらしい。

俺は年に一度くらいのペースであったがこの土地に帰ってきていた。だけど、昔に通っていた小学校のことなど親に言われるまで少しも気にしたことがなかった。なにしろ、この小学校に通っていたのは、もう30年以上も前のことだから。

この小学校が取り壊されてなくなる前に、俺はこのかつて見ていた風景を写真に残しておきたかった。

6×7のブローニーフィルムをPENTAXにセットして、門をくぐりグランドの土を踏んだ。

過去の記憶を辿るようにゆっくりと歩いた。

昔、よくぶらさがって遊んだブランコは鎖ごと見事に消えて、錆び付いて変色した支柱しか残っていなかった。毎日のように覗いていたウサギ小屋はすっかりからっぽだ。飼育係だった自分にはあのときの匂いがうっすらと残っている気配がした。

校舎の脇の小さな花壇には若い菖蒲が葉を広げている。

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不意に誰もいないはずの教室からかすかな音が聞こえた。聞き覚えのある音色。

俺はその音の導かれるまま歩を進めた。

子守唄のような優しい旋律のワルツがなぜか俺を懐かしい気分にさせた。次第に音は鮮明になって行く。

俺は教室の窓の外からしげしげと中を覗き込んだ。格子に遮られて斜めに割れた光の束のあいだを一瞬、白い鳥が横切ったようにみえた。

一人の若い女が目に映った。

急に時間が止まったように感じた。ちょうど静寂が無音という音楽を奏でるかのような静けさが俺を捉えた。

女の体は弓のように柔らかく伸びて、両の手は空気をすべて包みこむようにゆっくりと弧を描く。次の瞬間、肢体は宙を舞い、女は光の筋を軽快に躱していく。

俺の視線はほとんど追いつけない。そうかと思うと翻した体は花のつぼみのように丸まり小さくなる。

黄色い影は教室の奥まで伸びて、それからぼんやり消えた。

女は俺に気づき、どこか不安げに頭を下げた。
俺は恥ずかしそうに頭を下げた。

俺は玄関のほうに指をさして合図した。彼女は小さく頷くとそれから俺と同じように玄関の方に指をさして微笑んだ。

まるで水槽の中で白い鳥とかくれんぼをしているみたいな感覚だった。

鳥は水のなかを泳ぐのだろうか。俺はそんなことをひそかに思って笑ってしまった。

玄関で靴を脱いで廊下に上がった。ひんやりと冷えた床が気持ちよかった。無人の廊下を見ていると今にもチャイムが鳴るんじゃないかとワクワクした。俺は迷子になってしまいそうだったので、この玄関でしばらく待つことにした。

あたりには背の低い木製の下駄箱がずっしりと並んでいる。埃がたくさん被っていて人が残した形跡はみつけることはできない。ただ記憶を呼び起こす匂いだけが静かに漂っていた。

俺はジーンズのポケットから煙草をとりだして火をつけた。校舎には自分とあの彼女しかいない。ここは廃校でもうすぐ失くなるんだ、俺はそう思った。

彼女は私服に着替えて、俺の前に忽然と現れた。白いコットン生地に小さな黄色い花がちりばめられたワンピースが春っぽく、膝の上あたりで切られた丈がなんだか可愛らしい。肩に提げたバックから飛び出したホワイトのヘッドフォンがすぐにでも落ちそうになって、俺はすかさず手を伸ばした。

『 こんにちわ 』普通の女の子の、嘘のない笑顔だった。

鼻にかかったような声が甘く残り後味がよかった。短い髪がボーイッシュで、その栗色の髪はゆるいウェーブがかかり妙に大人っぽくも見えた。

『 あっ、どうも 』 俺は照れくさそうに笑った。

二人は玄関を出て、なんとなく歩き始めた。校舎を背にして白いグランドの真ん中を突っ切ると金網の囲いの前で足を止めた。地面に埋められた半月状のゴムタイヤがいくつも並んでいる。正面のタイヤに、いたずらに足を乗せるとスポンジにみたいに簡単に凹んだ。彼女も真似をして足を乗せるとタイヤは崩れるように傾いた。二人は互いに顔を見合わせて笑った。

俺は持っていたカメラを構えファインダーを覗いた。彼女はそれに気づくと微かに笑った。俺には女の子がおどけて飛び跳ねたように見えた。

俺の脳裏には水の中で舞う鳥が現れた。俺は迷わずシャッターを押した。しばらく黙ったままそれを繰り返した。言葉もなく、合図もなく、俺はシャッターを切り続けた。

彼女はこの小学校の卒業生だという。こんなときは教わった教師の話題がはじまるの常だが、あいにくそんな話題をあげる気にはならなかった。自分とは年が離れすぎているように思えた。彼女は24だと言った。

『 何年生まれになるの? 』

『 89年生まれです 』

『 へえ、89年か 』俺はなんだかもの珍しそうな調子で答えた。

俺は、ひとつの記憶の破片を拾い上げた。1989年11月、ドイツ・ベルリンの壁は崩壊し東西ドイツは統一した。その瞬間、世界は変わったのだ。俺はその激動の様子をテレビで目撃して、その一種の興奮にも似た感覚を今でも覚えている。俺はそのとき初めて世界を見たいと思った。日々繰り返される日常が非現実的に思えた。それから、たくさんの本を読み、勉強するようになった。その後、カメラを知った。

唯一の世界との接点は写真だった。レンズを通さなければ他人と繋がることはできなかった。写真機が世界を覗くたったひとつの窓だった。そして、急速に変化していく世界を追いはじめた。

 

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彼女は週末の僅かな時間だけ、この学校の教室を借りて踊りを教えていたという。この町の子供から大人まで年齢に関係なくレッスンしていたようだ。

『 すごいね。自分より年上の人たちから先生って呼ばれている訳だ 』俺は言った。

『 すごくないです。わたし、本当の先生の代理なんです。わたしにバレエを教えてくれた先生が体こわしちゃって。ずっと、東京で入院しているんです 』

俺はなんだか野暮ったいことを言ったなとすぐに後悔した。

『 東京に住んでいるんですか? 』

『 うん、そうだよ 』

『 じゃあ、わたしが東京に行ったとき、今日撮った写真見せてくださいね 』そう言って彼女ははにかむように笑った。

俺は東京のスタジオを潰して、今は仕事をしないで旅をしているなんて格好悪くて言えなかった。

それから、魅力的な女の子と出会えたおかげで負け犬ような自分を慰めることができるかもしれないと密かに期待を膨らませた。彼女の年齢からして、これから東京に出ることはないだろうと思うとささいな興味が明らかな欲求に変わった。

彼女は週末だけレッスンをしていると言っていた。ならば、それ以外の日はいったいどこで働いているんだろう。俺は考え始めた。ダンス教室なんてたいして稼げないだろうから。

『 バレエの先生ってどんな人? 』俺はなんとなく気になっていた。

『 すごく綺麗な人ですよ。ずっと憧れてて、なんでも真似てました。髪型とか洋服だとか。まあ、あの人はわたしなんかに真似されたくないって思っていたでしょうけど 』

『 その先生、体をこわしたって言ってたけど、完治したらこの町に戻ってくるんでしょう? 』

『 戻ってこないと思います 』彼女はそう言うとバックからベージュのカーディガンを取り出して肩にはおった。

俺はそんな話をする一方で、彼女の写真を撮りたくてモヤモヤしていた。なかなかタイミングを計れないでいた。

もし、目の中に記録装置を組み込むことができたら一瞬たりとも見逃さないのに、と幼稚な考えが浮かぶ。

曖昧な記憶は時間が過ぎても曖昧なのだ。

『 煙草を吸ってもいいですか? 煙草吸いますよね、さっき吸っていたところを見たんです 』

彼女はちょっと恥ずかしそうにした一方で、確信に満ちた刑事のような口調で問いかける。俺にはそれを拒む文句など見つからなかった。むしろ、俺をいつ見ていたのかが気になって仕方がなかった。

『 ここで煙草を吸っても平気なの? 』

『 平気です。わたし、いつもレッスンが終わってみんなが帰った後にここで煙草を吸うんです。家だと母もいますし、ここだと誰にもわからないから 』

そう言って彼女はバッグから煙草を取り出すと、チラッと俺をみて、それから煙草を口に含んだ。

彼女が吐き出す煙がゆらゆらと揺れた。

『 先生には煙草はやめろと言われるんです。でもわたしは大丈夫だと思うんですよね 』

俺は黙ったまま頭上を移動する雲を眺めていた。

彼女の生意気な仕草が可愛らしくて、もっと彼女のことを知りたいという欲求が沸々と頭のなかを占拠していた。

彼女は煙草の煙を燻らせながら遠くまで続く畦道を眺めていた。

県道と繋がる小道のバス停にちょうど一台のバスが留ると、鈍い音をたてながら扉が開いた。ひどく腰が曲がったおばあちゃんが一歩一歩丁寧に歩を進めて階段を降りてくる。制帽を深く被った若い運転手の煩わしそうにした口元だけがまるで別の生き物のようにこっそり見えた。バスの中にはその運転手以外は誰もいなかった。バスのエンジンは咳き込むような音をたてて走り始めた。

『 わたし、ずっと泣き虫で祖母によく怒られました。泣くことはいいことだけど、自分でしっかりコントロールできる大人になりなさいって 』

彼女は続けて言う。

『 でも悲しくて泣くことはないですよ。ほとんど悔しく泣きます 』と言って楽しげに笑った。

『 わたし東京までの切符買ったんです 』

『 東京に行ったらなにをするの? 』

『 わからないです 』火が消えてしまった煙草を指で弄んでいた彼女は、しばらくして小さな途切れそうな声で答えた。

西の空がほんのりと赤く色づいてくると山際を一羽の鳥が旋回して連なる山襞を駆け下りていった。すると冷たい風がすうっと吹いて俺の頬を掠め、ちょうど野草が焼けて香る懐かしい匂いを運んできた。

『 東京は、今日みたいなお天気の日でも雪がみれますか?』

『 どういうこと? 』俺は女の顔を覗き込むようにして見た。

『いえ、いいんです 』彼女は俺の無邪気な視線をよけて、しばらく間をおいて答えた。

 

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『 東京って楽しいんですかね? 』不意に、彼女は言う。

『 楽しいかどうかはわからないけど。まあ、こことは違うかな 』

俺はもっと気の利いた台詞はないのかと自分に問いていた。彼女を不思議な少女として終わらせるにはもったいない気がしたし、うまく逃げられないような質問を探して話を長引かせたかった。

『 大学受験とかで東京行きは考えなかったの? 』

『 考えましたよ、昔。そのつもりでした。実際に願書も出したし、当時はすごく勉強しました。試験の前日の朝、東京に向かう特急電車の中であるカップルと隣り合わせになったんです。そのカップルの楽しげな会話を聞いていたら、なんか戦いに挑む戦士のように構えている自分が可笑しく思えてきて。そしたら途中で降りちゃったんです。親からもらった宿泊費や受験費で小旅行しました。親は今でもわたしが受験に失敗したと思っています 』

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『 桐生駅の近くに芭蕉という店があるの知ってる? 』俺は話を遮るように言った。

『 ひょっとして全身が草で覆われていて入り口がどこだかわからない店ですか? 』

『 当たり。知ってるんだね。そこのカレーがめっちゃウマイ。今から行こうよ 』

 

俺たちは学校を離れた。俺は一度振り返り校舎の上に浮かぶ藍色の空を見た。

ゆるやかな傾斜を降りて行くと小さな渓谷が見えてきた。鉄橋の手前に「相老」という無人の駅がある。時刻表を見ると、次に電車が来るにはまだ時間があった。俺たちはプラットフォームにでて三人掛けのベンチに腰を下ろした。

彼女はおもむろにバックから一枚の写真を取り出した。
その写真はまるでお遊戯会の舞台装置のように大量のタイヤでちりばめられた不思議な公園だった。

『 蒲田ってどんなところですか?この公園、そこにあるらしいんです 』

彼女は続けて話した。

『 ある人に呼ばれて行くんです、来月。奥さんがもうすぐ死ぬから来いだんて最低な男ですよね 』

俺はまるで舌が痺れて上顎に貼り付いたみたいに声が出なかった。

『 しんどいことって誰でもあると思いますけど、でも結局、他人には関係ない。いろんな人がいるけどわたしにはなんの影響も及ぼさないし、わたしも影響も与えない。東北の地震でさえ関係ないんです。世界のどこかで大きな事件があっても、わたしには関係ないんです 』

彼女の様子は悲しんでいるふうでもなく、苛立っているふうでもなかった。

そこには一切の感情など存在しないかのようにみえた。もしあったとしても、俺には理解できないことのように思えた。

『 頭の悪い女に思われるのは癪だったから、なんだか無性に腹が立ってきて6年前は途中下車しちゃったけど 』

 

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彼女の名前はハルカといった。

最初、晴れた香りと書くんだろうと勝手に決め込んでいたがまったく違っていた。

『 太陽のヨウにハナ 』

『 えっ? 』俺は携帯をいじくりながら訝しげに聞き直した。

『 アジサイ(紫陽花)って打って、それから紫をけしてください 』

俺は戸惑いを隠すこともすっかり忘れて彼女のいう通りにした。

色を後から消すなんて写真家の自分としてはなんだか後ろめたい気もした。

だけど、色相学的に紫を減らすと黄色から水色に変化するわけだから、彼女の出で立ちからいえば、そっちのほうがしっくりくるなと奇妙な感覚を覚えた。

電車がきた。

日が暮れようとしていた。

 

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PENTAX67  TAKUMAR90mmF2.8 Kodak PORTRA160NC

photographer 高野勝洋

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