俺は、もっぱらの外食主義だ。
今の時代、どこの飲食店に行っても安く食事ができる。おまけに、居心地のいいレストランであれば長くいることもできるし、PCを持っていって仕事もできる。
ひとりでいると、自宅で料理をする気になんてなれない。
そもそも、自炊をするということは大変な苦労だ。スーパーに買い物に行って食材を集め、大半の時間はキッチンで下ごしらえ。
食べ終われば、後片付けもしなきゃならない。
野菜は一回の料理で使い切るようなことはなく、大概は無駄にしてしまう。
金銭面だけでなく、時間というコストからみても合理的ではない。
料理をつくる理由がみつからない。
だけど、
料理をつくるということは、あらゆる創作の基本だと思っている。
今日、レストランで食事をしている時、おもむろに息子が言った。
『お父さんが作ってくれたご飯がいつも美味しかった』と。
俺が彼に食事をつくっていたのは、もう10年以上前の話である。
離婚後、息子に料理をつくる機会なんてなかった。
『おー、そうか』
俺は、息子にそう答えた。
美味しい料理を食べることは幸せにちがいない。
でも、
美味しいと言われるような料理をつくることも幸せなんだ。
ここに載せた写真は、俺が撮ったものではない。
だけど、スマホのなかにあった、俺が作った料理の写真。消さないで良かったと思う。
写真が残っていて嬉しい。
写真はまるで記憶を照らす灯りのようだ。
たとえば、三日前に食べたものを思い出せと言われても無理だけど、撮ってもらった写真をみるとまるで昨日のことのように思い出す。
出来栄えだけでなく、俺がいつ、どんなレシピで、どんな気持ちで料理をしたのか鮮明によみがえってくるのだ。
誰でもつくれるような、ごくありふれた料理の一皿から、
記憶が、声が、感触がよみがえる。
料理を作ることと、食べることではやっぱり違いがある。
食べることよりも、作ることのほうがちょっぴり得した気分になる。
それは、まるで一日をほんの少しだけ延ばしてくれるようなファンタジー。
俺だけ一日25時間あったような優越感。
かつて、俺はキッチンに立っていた。
料理をするために。
それは、ある種類の感情に支配されたとき。
自分以外の誰かに、心を動かされてるとき。
そのとき、
料理は、ありふれた日常を劇的に変化させる魔法のようだ。
空腹を満たすだけの『エサ』が、食事に。
調理という『作業』が、表現に。
費やした『時間』が、愛情に。
平凡な『テーブル』が、食卓という舞台になる。
外食ばかりしていると、気づかないことがたくさんある。
欲を満たすことばかり考えていると、気づかないことがたくさんある。
ひとを愛せないでいると、気づかないことがたくさんある。
結局、
料理というものは、旨いか不味いか、それだけでは十分ではないのだ。
気持ちの分だけ、レシピがある。
テクニックだけでは心が不足してしまうのかもしれない。
ひとがひとに対して想いを伝えること。
それが料理なんだと思う。