水は生命にとって大切なもの。
異なる言葉の国でも、水だけはつながっている。だから俺は、訪れたどの国に行っても、海や川を撮影した。
Y時型の杖のようなもので、水の底を探って水脈(船の路)を見つける職人のことを『水見』と呼ばれる。その杖は、俺に撮ってはカメラだった。
よく、写真が好きなんでしょうと言われたけど、べつにそうじゃなかった。目の前に映る世界に興味があったから写真をはじめただけだったのだ。
旅をするのに、カメラという杖が必要だった。
カメラは自己と世界(他者)の接点でしかなかった。
どこかで視線を変えなければ、その旅は終わらなかった。
そのとき、目に飛び込んできたのがカモメだった。
リチャード・バックの『かもめのジョナサン』という小説がある。
多くのカモメは、飛ぶという行為を簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうとはしない。どうやって餌のあるところまでたどりつき、次にどうやって自分のアジトまでもどってくるか、それさえ判れば充分なわけだ。要するに、すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだ。
だけど、この主人公の風変わりなカモメにとって、重要なのは食べることよりも飛ぶことそれ自体だという。
『おかあさん。ぼくは自分が空でなにができるかを知りたいだけなんだ。ただそれだけのことさ』。
俺はそんなカモメと自分を重ね合わせた感覚をおぼえた。
そのとき、
水底をなぞっていた杖が離れた。
PENTAX67 TAKUMAR90mmF2.8 FUJI PRO160NS